世界史のサンプル問題
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問題 1
1917年の十月革命において臨時政府を打倒し、世界初の社会主義国家樹立へと権力を握ったレーニン率いる党派はどれでしょう?
- ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派)
- 社会革命党(エスエル)
- 立憲民主党(カデット)
- メンシェヴィキ
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正解: ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派)
1917年の十月革命(11月革命)で権力を掌握したのはレーニン率いるボリシェヴィキ。二月革命(3月)後に成立した臨時政府を打倒した。メンシェヴィキはボリシェヴィキと同じ社会民主労働党から1903年に分裂した穏健派で、十月革命には反対し権力を握らなかった。社会革命党(エスエル)は農民基盤の社会主義政党で、二月革命後の臨時政府・ソビエトで一定の影響力を持ったが、権力を最終的に掌握したのはボリシェヴィキ。立憲民主党(カデット)は自由主義の臨時政府主導政党だったが十月革命で排除された。
TIPS
「ボリ(多数)シェヴィキ vs メン(少数)シェヴィキ」——名称の意味が多数派vs少数派で、権力を握ったのは多数派のボリシェヴィキ。
問題 2
1215年にイングランドの貴族たちがジョン王に署名を迫った「マグナ・カルタ」の主な内容として正しいものはどれでしょう?
- 英仏百年戦争の休戦条件を定めた国際条約
- 農奴の解放と土地分配を定めた農業改革の勅書
- 貴族の同意なしに国王が課税できないことなど、王権を制限する条項を定めた文書
- 教会と国王の権限を明確に分離し、教皇の優位を認めた協約
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正解: 貴族の同意なしに国王が課税できないことなど、王権を制限する条項を定めた文書
マグナ・カルタ(大憲章)はジョン王の失政と重税に憤った貴族たちが1215年に要求・署名させた文書で、「法の支配」や「同意なき課税の禁止」などを明記し、後の議会制民主主義の原型とされる。農奴解放・土地分配はマグナ・カルタの内容ではない(その方向の動きは後の農民一揆など)。教会と王権の関係を定めたのはウォルムス協約(1122年)などであり別文書。英仏百年戦争はマグナ・カルタの約1世紀後(14〜15世紀)の出来事。
TIPS
マグナ・カルタ=1215年=「王権制限」の三点セット。現代のイギリス憲法の根幹文書として今も効力を持つ条項があるため「最初の憲法」と呼ばれることもある。
問題 3
1917年の十月革命(ボリシェヴィキ革命)でケレンスキー率いる臨時政府を打倒し、世界初の社会主義国家の政治的指導者として権力を握った人物は誰でしょう?
- スターリン
- レーニン
- トロツキー
- ケレンスキー
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正解: レーニン
十月革命(1917年11月)の政治的最高指導者はレーニン(ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ)だ。レーニンはボリシェヴィキ党の指導者として帰国し、臨時政府の打倒を主導した。トロツキーは十月革命で赤衛軍・軍事委員会の組織・指揮を担った実質的な軍事指導者だが、政治的最高指導者はレーニンだ。ケレンスキーは十月革命で打倒された臨時政府の首班で、ボリシェヴィキとは対立する立場。スターリンはレーニンの後継者として1920年代以降に権力を固めた人物で、十月革命時点では二線級の役割だった。
TIPS
十月革命の軍事指揮=トロツキー、政治指導=レーニンと役割を区別しておこう。二人の関係は重要なポイントだ。
問題 4
ジェームズ・ワットが1769年の特許で示した蒸気機関の核心的な改良はどれでしょう?
- 複動式を初めて採用し、ピストンの往復の両方向で動力を得た
- 太陽・遊星歯車を用いて、往復運動を回転運動に変換した
- 分離凝縮器を設け、シリンダーを高温に保ったまま蒸気を冷やして燃料効率を高めた
- 高圧の蒸気を使い、小型で機関車に積めるエンジンを実用化した
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正解: 分離凝縮器を設け、シリンダーを高温に保ったまま蒸気を冷やして燃料効率を高めた
ワットの1769年の特許の核心は分離凝縮器である。それ以前のニューコメン機関はシリンダー内で蒸気を冷やしていたため、加熱と冷却を繰り返して大量の燃料を無駄にしていた。ワットは蒸気を別室(凝縮器)で冷やすことでシリンダーを高温に保ち、燃料効率を飛躍的に高めた。高圧蒸気による小型化は後のトレビシックらが進めた方向で、ワットはむしろ高圧を避けた。複動式や太陽・遊星歯車もワットが後年に手がけた工夫だが、いずれも1769年の特許の核心である分離凝縮器とは別の改良である。
TIPS
ワットの発明の要は冷やす場所を分けたこと。シリンダーを冷まさない工夫が省エネにつながった。
問題 5
フランス革命でルイ16世が断頭台に送られた年はいつでしょう?
- 1791年
- 1789年
- 1795年
- 1793年
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正解: 1793年
ルイ16世はギロチンで処刑されたのは1793年1月21日。1789年はバスティーユ牢獄襲撃(革命勃発)の年であり、王が処刑された年と混同されやすい。1791年はフランス初の憲法制定と立憲君主制発足の年で、国王はまだ在位していた。1795年は国民公会が解散しとなりの総裁政府が成立した年で、これも処刑より後。革命の進展:1789年(革命勃発)→1791年(憲法制定・立憲君主制)→1792年(共和制宣言・第一共和政)→1793年(処刑)→1793〜94年(恐怖政治)という流れを押さえると年号が整理できる。
TIPS
「1789革命・1793処刑」は4年の差。「革命の4年後に王が死ぬ」と覚えると混乱しない。
問題 6
第二次世界大戦中、連合軍がフランスに上陸した「ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)」が実施されたのはいつでしょう?
- 1944年6月
- 1944年9月
- 1942年11月
- 1943年7月
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正解: 1944年6月
ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)のDデイは1944年6月6日。1943年7月はシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)が実施された時期であり、連合軍がヨーロッパ大陸本土(フランス)に上陸したわけではない。1944年9月はノルマンディー上陸の約3か月後で、連合軍がすでにパリを解放(8月25日)した後の時期。1942年11月は北アフリカ作戦(トーチ作戦、モロッコ・アルジェリア上陸)の時期で、フランス本土ではない。
TIPS
「D-Day=1944年6月6日」はそのまま暗記必須。年と月と日(44年6月6日)をセットで。
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